「出雲阿国」出雲大社と京都

「出雲阿国」出雲大社と京都


出雲阿国は出雲の生まれでない?

 出雲阿国というと、桃山時代から江戸時代の初め、出雲大社の巫女として京都でかぶきおどりを演じて大人気となり、それが現在の歌舞伎につながっていった、といういわゆる歌舞伎の創始者、と言われる人物です。しかし、物語や伝記の大半は阿国の死後に作られたもので、信頼できる当時の資料は本当に少なく、その実像はよくわかっていません。
 生年没年などわかりませんが、それどころか、研究者の間ではなんと出雲出身ということさえ怪しまれているようです。

 しかし、出雲生まれでないとすると、出雲大社の巫女を名のった理由がわからなくなります。出雲阿国について、大変詳しい研究をされている小笠原恭子氏は「おそらく彼女の一座は山陰地方をめぐり、出雲大社から、社寺の造営や修復、仏像建立などのための浄財をあつめて諸国を廻る、勧進の許可をとったのではあるまいか。そこではじめて、出雲大社の巫女という名のりを持つことになったと思われる。」『出雲のおくに』(中公新書)と推測されていますが、どうでしょうか。勧進の許可を取るだけなら、伊勢や熊野など他の社寺でもいいような気がしますし、なによりもよく知らない、何ら縁のない芸人一座に、出雲大社がその名のりを与えるということに疑問を感じます。
 
 大社近辺に伝わる資料を集めた『出雲阿国伝』では、阿国の生家は出雲大社の鍛冶職で、杵築(出雲大社のあるあたりの地名)に住む中村家の生まれであるとされています。そのため歌舞伎俳優には中村の姓を名乗る者が多い、とも言われています。

阿国の踊り

 生まれがどこかはさておいて、「出雲大社女神子」「雲州の」「出雲のもの」などと当時の資料に書かれており、阿国が出雲からきた、と信じられていたのは間違いありません。巫女といっても現在の神社の巫女のように、白い衣と緋袴を身につけて神楽と共に踊るというものではおそらくなく、当時は神仏習合時代ですので、阿国がベースにした踊りも「念仏踊り」であると言われています。
 前掲の『出雲のおくに』では以下のように表現されています。

 「出雲大社の巫女と称するくにという女が、男装して「かぶき者」に扮し、茶屋通いをして女と戯れるさまを、歌と踊をまじえてえんじてみせるというのである。その扮装の華麗さも話題であった。紅梅の肌着に唐織りの小袖、赤地金襴に萌黄裏の羽織を着て、黄金造り鍔に白鮫鞘の太刀を帯び、黄金の張鞘の大脇差ははね差しに、首にはいらたかの大数珠をかけたいたと記す書もある。
 また、南蛮更紗の袖無しの胴着を小袖に重ね、黄金の鎖に重ねて水晶のロザリオと十字架を胸にかけ、腰には瓢箪や巾着・印籠などさまざまなものを吊して、地面についた大刀にゆったりともたれかかるポーズを書く絵巻もあり、男髷に結って覆面をし、椅子に腰をおろした姿を描いている草子もある。
(中略)
 人びとは、彼女のこの舞台を「かぶきおどり」と呼んだ。そしてこの新しい芸能は、たちまちのうちに京中の人気を独占した。こののちおくには、自ら「天下一」を称し、歌舞伎の祖としての栄誉を、ながくこの国の歴史にとどめることとなったのである。」


京都・川端四条にある阿国の銅像

阿国と京都

 阿国が京都で最初に興行したのは北野神社(現在の北野天満宮)と言われ、のちに五条河原や四条河原で行っていたようです。その内容は以下のようなものでした。「当時巷を横行していたかぶき者の風俗で舞台に採り上げた<歌舞伎踊>を踊って、当時の貴賤大衆から熱狂的な支持を受けた。お国は男装して伊達なかぶき者に扮し、猿若と呼ぶ道化役を共に連れ、女装の狂言師が扮する茶屋女のもとへ通っていく<茶屋遊び>の様子を官能的に踊で演じてみせた。」『歌舞伎事典』(平凡社)
 
 一世を風靡した阿国ですが、その消息については慶長十七年でぷっつりと切れてしまいます。今も昔も、このような芸能が流行る期間は長いものではありません。まねをする者が現れたり、また、遊郭が行った「遊女歌舞伎」は多数の遊女が踊り、いろんな楽器を使う華やかなもので、阿国のような小規模な芸人一座では対抗できなかったのかもしれません。
 「遊女歌舞伎」や少年が演じる「若衆歌舞伎」は人気を集めますが、風俗を乱すとの理由で徳川幕府より禁じられます。そして、大人の男性が女役も演じる「野郎歌舞伎」となり、現在に続いています。


阿国の興行場所だった北野天満宮(左)と四条河原(右)

晩年の阿国

 晩年の阿国についてもよくわかっていません。ただ、出雲大社の近辺に伝わる話では、のちに故郷杵築に戻り、庵を結んで尼となり、連歌をたしなんだ、と言われています。
 阿国の墓と伝わるものは二カ所あります。一つは杵築、出雲大社の近くで、大社から稲佐の浜に行く道の途中、少し登った墓地の中にあります。
 もう一つは京都、紫野の大徳寺の塔頭「高桐院」の中にあります。大徳寺は阿国の愛人であったと言われる名古屋山三郎が出家時代にいたところであり、山三郎の墓もあります。その縁でしょうか。ただ、その阿国と山三郎のロマンスも事実というよりは伝説であろう、ということだそうですが。

 出雲と京都、この二カ所をつなぎ、女性のみでありながら一世を風靡し、歌舞伎という伝統芸能の創始者にまでなってしまった阿国の生涯というものを思うと、何か不思議なものを感じます。


出雲大社近くの阿国の墓への入口(左)と京都紫野、大徳寺の高桐院(右)
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<このページの筆者>
 中島隆広 : 出雲大社紫野教会、教会長
昭和46年京都府生まれ。名古屋大学経済学部卒業、会社員の後、パソコン部品のインターネット通販の会社を起業して経営する。会社売却の後、國學院大學神道學専攻科に入学し、神主となる。

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