出雲大社と神仏分離
全国的には神仏分離が行われたのは、明治になってすぐのことでしたが、出雲大社においてはそれより遥か前、江戸時代前期に行われました。
神仏習合の進展
仏教伝来より、日本は長らく神仏習合の時代が続きました。最初は仏教の教えを広める手段の一つとして、日本の神が読経など聞くことを喜ぶ、という話を広めたこともあり、寺院にはその土地の神様を守る神社ができ(清水寺の京都地主神社などが有名です)、また時代が進むと神は仏の仮の姿である、という神仏習合思想がかなり広まり、神社にも寺が出来るようになってきました。出雲大社においても、北西にある鰐淵寺との関係が深くなり、神前で読経することが行われている時代があったりしました。
と言うと神社と寺院は仲良くやっていたんだ、と思われるかもしれませんが、必ずしもいつもそうではなく、特に実権が朝廷から武家に移りますと、寺院側がどんどん力を持つようになりましたが、神社側は押されてしまう状況に苦悩する神主も多くいたようです。
出雲大社の神仏分離は江戸時代
出雲大社も時代が進むにつれ仏教色が濃くなり、境内に三重塔が造られるという状況でした。しかし、江戸時代四代将軍徳川家綱の時代に、出雲国造千家尊光は、松江の殿様松平氏の協力を受けて、出雲大社の大規模な修復を行うことになりました。これが寛文の造営で、御本殿が現在の大きさに復活したのを始め、境内の様子がほぼ現在と同じになったのはこの時のことです。この寛文の造営の際に、境内の仏教色は一掃されました。
前記の三重塔ですが、御本殿の檜皮が足りないので探したところ、但馬国(今の兵庫県北部)にある妙見山というお寺にいい木があるということで話をしたところ、代わりに三重塔が欲しい、といわれて譲ることになりました。現在もその三重塔は兵庫県養父市の名草神社に存在しています。
ということで、出雲大社では一足早く神仏分離が行われましたわけです。
神道人の理想
明治期の神仏分離があまりに一気に行われた影響もあるのでしょうが、現在では神仏分離を否定的に見る人がいます。神仏習合こそ日本の宗教である、と言う人もいます。修験道などの山岳信仰のように、神仏習合から発展してきたものもありますので、それらが好きな方は神仏分離はあまり気に入らないのだと思います。
そういう意見も一つの考え方だとは思いますが、しかし、出雲大社のようにはるか昔から祭祀を続けてきた側からすると、やはり神仏習合というのはどうも不自然なものだという意識が神主にもずっと受け継がれてきたのだと思います。その結果、出雲大社では早く神仏分離が行われることにつながったのでしょう。
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<このページの筆者>
中島隆広 : 出雲大社紫野教会、教会長
昭和46年京都府生まれ。名古屋大学経済学部卒業、会社員の後、パソコン部品のインターネット通販の会社を起業して経営する。会社売却の後、國學院大學神道學専攻科に入学し、神主となる。
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